健康NEWS 2021年4月 A面 私は変わりつづけている

つきしろ健康NEWS

流れている川の水は絶えず変化している

昔40代の頃から、自己の性格であったり人生や世の中がむなしく物事を考え、虚無的になり、仲間同志合議をしながら語り合ったものである。お互いに落ち込むようなでき事が起こったり、周りによくできた人と自分を比べてしまったりすると「どうして自分は そうなんだろう」「こんな自分を変えたいのに 変えられない」と、いつも同志仲間で言い合っていた。しかしそうは思っても、こういう自分の性格は生まれつきだから、どうしようもないんだ!と、そのようにあきらめていて結論が示されずにいたことを思い出して、今考えてみた。

それは本当に「この自分」「自分の性格」は絶対に変わらないものだろうか、ある講演会で「固定不変の私というものは存在しない」という文語を説き話されていたことを思うと  固定不変とは最初から決まっていて、ずっと 変わらないという意味である。「変わらない私はない」ですから「私」というものは常に変わり続けているわけである。

「私」というものは日々の中で、移ろい必ず変化をしている。ほんの少しずつの変化で あるので、自分達には自覚はあまりないかも知れない。しかし、長い時間がたってみると 確かに自分は変わったのだとわかることがある。例えば、昔は人前に出るのが苦手であったが、仕事で人前で話す回が多く重ねる内にまったく苦にならないことは、皆さんもあることでしょう。

自信がなく消極的な性格だと思っていても 小さな成功体験を積み重ねることで、なんでもチャレンジできる積極的な性格に変わると いうこともある。私達が『性格』といっているものの多くは、日々の行動が習慣化したものであると私は思う。ポジティブな考え方、ネガティブな考え方も、その人の毎日の思考が癖に なったものだといえるし、物事を前向きに明るい性格になり、逆に物事を悪い方ばかり見ていくと、そういう見方が身についてしまうものであると私は思う。『性格』だと思われているものは、言って見れば『考え方』の癖であるとも思う。違った視点から見てみたり、自分とは 違う発想に触れたりすることによって、変わっていくことができると思う。

「行く川の流れは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず」という言葉が古典の中に あるように、流れている川の水は絶えず変化をしていて、ほんの数秒前と同じではないはずである。

私達の体を構成している物質も数年周期で 完全に入れ替わるといわれている。物質にも 数年前の私達と今の私達は違う物質でできていることになるわけである。ですから毎日気がつくか・気がつかないかの少しづつであるが 人は常に変化し続けていることになる。

あなたという一人の存在も、日々をどう 過ごすかによって日々変わり続けることになる。変わらない私もないし、変われない私もないのである。皆さん理解できますでしょうか。

『孤独死』をどう考える

日々自治区の仕事に従事している中で、いつも思うことが あります。自治区を守るということが、自分の役目であるならそれは限りない経験や能力が身についていて、そしてそれなりにたけた人であっても、重い役目になると思います。
私の体験から、つきしろで2人の孤独死寸前と2人の孤独死に係わりました。
最近はコロナ禍で自殺者が増えていると報じられています。その情報も悲しい限りであります。そして私達が思う『孤独死』という人間の悲しい死は、高齢者の単独世帯化が急増すると 共に増える傾向にあり、国は孤独死の定義や全国規模の調査を行っていません。
2011年のニッセイ基礎研究所調査では、孤独死が全国で年間2万6821人であったという記があります。高齢者に おける【別居している子との接触頻度】について、別居して  いる子との接触頻度が低く、子供や孫と家族だんらん、友人との食事や雑談、家族・友人との交流が生きがいと感じる高齢者は、諸外国と比べて特に少ないといいます。このデータは  高齢者の地域社会への参加の構造の意識調査でも記しており現在の実情では高齢者の孤独死が増加する背景には、1人暮らしが増えていること、子供が就職や結婚を機に独立、又、配偶者が亡くなった後、アパートなどに引っ越し1人暮らし、そのような事例があります。
現在ではコロナ禍で外出できず、自粛などで家にとじこもり  病気、ストレスなどをおこすことで、高齢者の孤独死が続いているといいます。このような実情は現在のコロナ事情が世の 中を混沌とさせ、『孤独死』への誘発に繋がっているように  思います。
コロナ禍で今を思いめぐらしたとき、いつも不安があります。人の生き方は、千差万別でありますが、この役目を担いでいると いつも必ず頭にうかんでくるのは何故でしょうか?
孤独死とは、たった1人で亡くなること、そこには『この人の生き方やそうならざるを得ない』ことがあると思います。 ただ思うとき、1人で誰にも看取られず臨終を迎えることは この人が生きてきたわだちが、あまりにも淋しい切ない死に 繋がっているからです。なんとか看取りを身内の誰かに伝えてあげたい。それができないことは、なんとも身切りの心痛で あります。
昔はこんな孤独な淋しい死はなかった。周囲に必ず人がいて  みんなで臨終を看取って涙したものである。
世の中には良いことは数えるほどしかなく、悪い成り行きが多くそして妨げが多く、まさに『寸善尺魔(すんぜんしゃくま)』という昔からのことわざを思い出してしまいます。今の世はどうにもならないのでしょうか。皆さんはどう思いますか・・・

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